元中8年(北朝年号、明徳2年=1391)の明徳の乱とよばれる「山名氏一族の内紛」に乗じ、義満は大軍を投じ山名氏清を討伐しました。
こうして全国各地で、もはや戦乱の大きな動きは見られない時代が訪れつつありました。 戦乱を治めるための気運が朝廷にも動き始めました。 そして、元中9年10月、将軍義満のあっせんと南朝の御亀山天皇の決断により、南北朝廷の統一が実現することになりました。 後醍醐天皇が吉野へ遷幸されてから、57年を経て、二つの朝廷が対立した南北朝時代に終わりを告げたのでした。
「南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り渡す」「大覚寺統と持明院統一つまり南北朝交互に皇位に就く」というのが合体統一のまとまった協議の内容でした。
元中9年10月28日、後亀山天皇は、わずか40人余りのお供を連れ、吉野の山をくだられ、京都へ向かわれました。 京都へ戻ること、それは南朝4代の天皇の夢だったはずでしたが、その行列は、辺りの晩秋の景色のようにわびしくささやかなものでした。
そのころ、甲州の波木井の里に居た南部政光は、先祖代々仕えてきた吉野の朝廷が、京都へ還られたことについては喜びましたものの、足利将軍に仕えることは、潔しとしませんでした。
「根城に城を築かれた先祖師行以来、根城南部は政長、信政、信光、さらに拙者政光と、父祖5代にわたり南朝方のために忠節を守り続けてきた。 時勢が変わり、今は弓を引き続けてきた足利殿が将軍である。 なんで今さら節を曲げ、将軍に降伏を申し出られようか。 この上は、あくまでも家門を守り、先祖の名前を汚すことのないよう、さらに覚悟を新たにしなければならぬ」
南北両朝廷の統一が成立し、幕府の力がますます強くなりましたので、今まで南朝方に属していた忠臣たちも、それぞれ足利将軍に仕えることになりました。 けれども政光は一人、それに従いませんでした。 指折り数えて元弘3年から元中9年までざっと60年、根城南部家が貫き通してきた節操を、世の中がかわったからといって曲げて妥協することは、武士の名誉が許さないというのが政光の信念でした。 政光の決意は鉄のように固く、「もし将軍が討手を差し向けてきたなら、潔く切腹をし、先祖の武名を汚すまいぞ」と覚悟を固めていました。
そのころ、政光にとっては本家にあたる三戸南部家は、13代目の守行の時代でした。 政光は守行の提案に、じっと耳を傾けました。
「よいか政光殿。貴殿の誠忠の真心には、よもや将軍家とて、無用の軍勢を差し向けることはあるまい。 願わくばこの甲州の本領を去り、師行公の築かれた八戸に居住するならば、南朝の天皇から賜った領地を守ることになろう。 将軍家へ出仕せずにすむならば、貴殿は将軍家には頭を下げず、二君に仕えることにもなるまい。 貴殿1代限り出仕をしない、ということは、自分が責任をもって将軍家に取りなしを致す。 政光殿、これでいかがであろう」
「守行殿の行き届いたご配慮には、感謝の言葉もありませぬ。死すとも敵の禄は食まずと存じ、かたくなに強情を申し上げておりました。 将軍の指図によらずして、南朝より拝領の地に住むことが出来、しかも先祖の祭祀を絶やさずにすむならば、これ以上ありがたいことはありませぬ。 万事貴殿のお計らいにまかせ、奥州へ下向つかまつることに致そう」
守行は政光の承諾を喜び、早速京都へ戻り、この事を将軍義満に報告しました。 特に「政光一代限り出仕御免」については、次のように将軍に願い出ました。
「政光の領地の八戸は、自分の領地の三戸の隣になっております。 もし政光に、将軍家に対し反逆の行動があれば、自分の責任で処理を致します。 何とぞ、政光一代限りの出仕御免をお許し下さいまして、その家名が断絶しないよう、お願い申しあげます」
将軍義満は、政光の忠義と、誠実な守行の言葉に「その方の、望みにまかせるであろう」と許されたということです。
明徳4年(1393)の春も終わりのころ、南部政光は一族の諸士とともに、甲州にあった本領を捨て、八戸へやってきて、永く根城をその居城としました。政光の子孫は、その後、遠野へ国替えを命じられる寛永4年(1627)まで、ここに住んだのでした。
甲州(現在の山梨県南巨摩郡身延町)から再び八戸にやってきた南部政光は、応永19年(1412)のころには、聖守と名乗り仏門に入りました。 そして兄信光の子の長経に根城の九代目を継がせ、自分は七戸城に移ります。 政光の子孫はその後、代々七戸城に居て七戸氏を名乗りました。 その七戸氏も、時代が下って天正19年(1591)九戸政実が謀反を起こし、豊臣秀吉の大軍に征伐された時、九戸方に味方したため、家は滅んでしまいました。政光は応永20年8月、病気のため七戸で亡くなりました。
南北朝時代を、最後まで南朝支持で貫き通した根城南部氏。 そのゆかりの土地には、長慶天皇の伝説が伝えられています。 長慶天皇は、根城南部家とはかかわりの深い、後村上天皇の第一皇子寛成親王です。
長慶天皇はナゾの天皇とも呼ばれ、長い間、天皇の系譜には加えられておりませんでした。 動乱の南北朝時代の天皇だったからです。 その存在が確認されたのは、ずっと後世になってからです。大正15年10月21日付詔勅で皇統に加えられました。 けれども正確な伝記は不明な点が多く、長慶天皇のお墓(御陵)の伝説は、全国に20カ所もあるといわれています。
明治年間に各地の長慶天皇のお墓の調査が行われ、その後、昭和19年に京都の嵯峨の慶寿院跡が「御陵墓」に定められています。宮内庁が京都の嵯峨に決定しました。
長慶天皇は、正平23年(1368)後村上天皇が亡くなられた跡を継ぎ即位し、その弟であられた後亀山天皇に譲位される弘和3年まで、およそ16年間在位されたと考えられています。 足利幕府の軍勢が、南朝方の天皇の行宮に、しきりに攻撃をしかけた時代です。 長慶天皇は弟の宮に位を譲られた後、各地の南朝に味方する武将を訪ね回り、協力を求め勢力の回復を図られたと言われていますが、実は陸奥の国「奥谷」に潜伏されていたといいます。
その旅の足跡が、長慶天皇伝説です。 敵の目をくらますために、各地で亡くなったとの噂をまき散らしたのでしょうか、お墓と伝えられる場所が、たくさん残されているのです。
例えば、青森県南地方の名久井岳の麓の有未光塚(=南部塚)は、明治13年6月に、当時の青森県の役人の中島健三が調査し、県令山田秀典に調査報告書を提出しています。
また昭和6年から昭和8年にかけ、当時の向村村長、留崎村村長らが宮内大臣にあてて、「長慶天皇御陵墓御事蹟御調査方請願」を提出し、名久井岳山麓の泉山御陵および名久井岳のふもと一帯の長慶天皇に関連する遺跡の調査を要請しています。 ですが長慶天皇のお墓は、宮内庁で昭和19年2月11日に「京都嵯峨東陵」と決定をしたものですから、そのお墓捜しは下火になりました。
長慶天皇の伝説のことを、ある日参議院議員の松尾官平氏に話題にしたところ、「うちの亡くなった親父の節三が、ひところ熱心に、長慶天皇で走り回っていたことがある。 その頃の資料があるから届けるよ」と、御尊父の故松尾節三氏のメモやら資料等を後で届けてくれました。
松尾節三氏は、三戸の町長をされた方です。 請願書の提出されたころの昭和の初め、地元の関係者の皆さん方の長慶天皇調査熱が、だいぶ上がっていたことがわかります。 その考証やら語り伝えによると、その昔、南北朝時代に長慶天皇の弟の煕成親王が少し先にこの地(名久井岳麓)に下られ、後でそこに行宮を築かれ長慶天皇をお迎えしたというのです。 この弟の宮は後で、後亀山天皇になられた方です。
三戸郡向村、山崎雪子という人のところで、先祖から伝えられた古い巻物がみつかりました。 昭和の初期の頃です。 それは長慶天皇の弟であられる後亀山天皇の「吉野からの旅日記」でした。その概要は次のような内容です。(松尾節三氏の記録より)
後亀山天皇は、兄君が天皇になられた後、18歳の時に落飾して明尊と名のった。正平15年のことである。 父の後村上天皇の密命を受け、陸奥に下ることになり、正平17年(1362)秋9月、従臣8名を引き連れ、旅僧姿で吉野の平宮を出発した。 堺から船で播磨の室津へ到着。 それから江島の浜浦。 10月23日江島から船で出雲の石岬へ。 そこから浜辺の路を杵築へ到着。 さらに徒歩で伯耆の国の光霊山。 そこから但馬の国・飯野湯瀬へ。 そこから三国峠を越え由良の浜浦から能登の七浦へ。 七浦から船で越後の大夫浦…さらに百三段ヶ浜から津軽の広戸浦(深浦)へ、そして徒歩で相馬村に着いたのが正平18年10月24日。そこで共の藤原時経が死亡、紙漉沢の相馬野原森に葬った。 ここに正平19年の8月3日まで居て、阿闇羅山に登り、汚れを祓い身を清め、城山、毛馬内、柴木平四角峠を越え、浄法寺清水森に到着。 そこから日時を経て、名久井岳の麓の奥谷(南部町)に到着。 そこに居を構えられた。 その後、正平24年春2月中の19日、ここに兄の長慶天皇をお迎えした。
この後亀山天皇の旅の記録は、長慶天皇の遺言により、弘和3年(1383)正月に、山崎太政大臣晴政老人に授けたものだということです。 松尾町長の昭和10年のメモには、「後亀山天皇は、八戸浦から、新船22隻に共のもの二百数十余名と共に乗船し、大和をさして帰られたという。 その時の歌に曰く、「わが君にあとを頼むとむつの潟遥か大和は波の上空煕成」とあります。 泉山部落に近い、名久井岳の麓の長谷寺は、明尊(実は長慶天皇の弟の親王にして、後の後亀山天皇)の開基で、ここが行宮であったというのです。 この長谷寺は慶長年間、盛岡に移され、その跡に恵光院が建てられました。 その近くには、長慶天皇のお供をしてきたと伝える佐藤丹波介の子孫がおり、天皇にゆかりの遺品と言われる品がたくさん残されていたことが、明治13年の調査記録に残されています。(南部町郷土研究会「ふるさとなんぶ」第2号)
その中でも、国宝の指定を受けている赤糸縅大鎧は、長慶天皇のお召しのものと伝えられ、鎧神舘に泰安してあったものが櫛引八幡宮に奉納されたものと伝えられています。 そこから、いつどうして移されたのかは定かではありません。
国宝の赤糸縅の大鎧、別名「菊一文字の大鎧」には見事な小菊の金具が、今でも金色さん然と輝いています。 一体、日本を代表する見事で立派な大鎧を、果たして誰が、いつ頃、どうして、このみちのくの果てまで運んできたのでしょうか。

◆国 宝◆ 赤糸威鎧兜 大袖付附唐櫃
(伝長慶天皇御料) 鎌倉時代の作
八戸市 櫛引八幡宮蔵

◆国 宝◆ 白糸威褄取鎧兜 大袖付附唐櫃
(後村上天皇から拝領) 鎌倉時代の作
八戸市 櫛引八幡宮蔵
「根城ものがたり」より |